BLOGスマートゴルフを目指して

2013.06.03

岡本綾子-私の履歴書を読んで

5月から連載をしていた日経新聞の岡本綾子-私の履歴書が先週で最終回を迎えました。

日本を代表するプロゴルファーの半生を毎日楽しく読ませてもらいました。

私の履歴書と言えば政界や経済界あるいは文化が登場することが多い印象がありますが、スポーツ選手による執筆は昨年8月のマラソン銀メダリストの君原健二氏以来です。

5月1日の「私の人生は土に戻るんだ。」という現在の半農半ゴルフの日々の紹介から始まり、そのあとは兄2人の末っ子として育った幼少時代に話が移ります。ままごと遊びが嫌いで小さい頃は男の子に交じって田畑や山を駆けずりまわり、家の前のため池の食用ガエルも平気で食べたと書かれてあります。プロゴルファーとしての抜群の勝負強さはこのころ育まれたのかもしれません。

幼少期に培われた勝負強さ、体のバネ
また、幼少期は一家総出で実家の農業を手伝っていたそうです。「20キロのジャガイモのコンテナボックスを肩に担いだ」、「井戸から大きなバケツに水を汲んで五右衛門風呂を沸かした」など、日常生活を通じて体幹が鍛えられていったのでしょう。

中学入学後はソフトボール部に入部しすぐに投手として指名され、サウスポーの速球派投手として活躍。左投げのため、ソフトボール部顧問の先生からは左打ちの指導を受けていたようですが、中学のラストゲームで「右で打たせてほしい」と頼み込んだらホームラン。この時点で左投げ右打ちの変則パターンが確立されていたようです。当時はゴルフも右打ちが主流だったはずで、当時もし右打席でホームランを打っていなかったら、左投げ左打ちになっていたかもしれず、プロゴルファー岡本綾子は誕生していなかったかもしれません。

たまたま始めることになったゴルフ
高校はソフトボール特待生として愛媛県の今治明徳高校に入学。練習の厳しさが半端ではなかったようで、エース兼主将に任命された後もソフトボールにはうんざりしていたようです。人間関係に悩んだのも高校時代が初めてで、卒業後はソフトボールを離れて大学進学を希望したそうですが監督に一括され、また父親からも説得され、嫌々ながら大和紡に入社。この大和紡入社が岡本綾子の人生を大きく変えるターニングポイントとなります。

国体で優勝し、大和紡の瀬戸社長に連れて行ってもらったハワイで海外生活へのあこがれを抱き、またこの時初めてハワイのゴルフ場に足を踏み入れています。

ただ、大和紡でも主将となり、後輩部員への対応などでずいぶん神経をすり減らしたようです。「(高校時代)主将に命ぜられたがそんな柄ではない、・・嫌々ながら引き受けざるを得なかった」、「私は人を引っ張るのが苦手」、もともとチームプレーは向いていないタイプだったのかもしれません。

嫌気の差したソフトボールを退部し、しばらくぶらぶらしていたところに言い渡されたのが工場に隣接したゴルフ練習場の勤務。これがプロゴルファー岡本綾子誕生の機会となりました。私の履歴書全般を通じて、大和紡や関係者のサポートへの感謝の言葉が節々に出てきます。

その後池田カンツリー倶楽部で研修生になったときは22歳、周囲からはちょっと遅いと言われたそうですが、ここからは水を得た魚のように仕事の合間を縫っての猛練習が始まります。

トッププロならではのエピソード
私の履歴書を読んでいて唸ったのは、‘1分1秒を惜しんでボールを打つ集中力’と‘深い洞察から紡ぎだされた創造性’です。「セベ・バレステロスや中嶋常幸選手ら5、6人のスイングで、気に入った部分を切り取ってつなげた連続写真を作り、頭の中にインプットした」は一例ですが、常に理想を求め考え続けるプロとしての姿勢があります。

また、トッププロになる過程でぶち当たる個々の事象も赤裸々に記載されています。プロ1年目初優勝を飾った美津濃トーナメントでの樋口久子との駆け引き、真意とは異なるマスコミ報道への違和感、女子プロ協会への不信、トッププロのみが感じる極限のプレッシャー等々。昔の手帳には「ゴルフに関するメモよりもあれこれ書いているのは人間関係のこと」だったそうです。

文章の節々にプレーヤーとしての繊細な部分も見え隠れします。「日本でも米国でも(プロテストは)2度目での合格」でしたが、「自分の中にある弱さ」からくる「びびり、恐怖心」は二度と経験したくないとのこと。「びびり」の症状はその都度異なり、各ツアースタートホールの時もあればバックナインの10番に入った時、8番のティーショットの時など、全てプレッシャーの色合いは異なるそうです。

アメリカツアー参戦時のエピソードも面白いものがあります。同じ組の選手がプレー中にキャディーに小切手を書いてクビ宣告をし、ロープ外のギャラリーにバッグを担がせたこと、試合中にアルコールを飲みながらプレーする選手がいたこと、同伴競技者に人種差別を受けたことなど、非常に興味深く読みました。また、海外ツアー参戦後日本ツアーでは考えられないようなエピソードの数々も記載されています。


何度もチャンスがありながら勝てなかった海外メジャーツアー
海外では残念ながら勝てずじまいで「しょせんは日本の岡本綾子かあ」とも思ったそうです。何度もメジャー戴冠のチャンスを目の前にしたものの、そのチャンスをつかむことはできませんでした。運がなかったのかもしれません。

 

メジャー6大会を含む通算31勝を挙げ、岡本とメジャーで何度も優勝争いをしたパット・ブラドリーとのプレー中の駆け引きや心理戦の記述も非常に面白い内容でした。精神的にタフなイメージがあったブラドリーですが、後年当時アルコール依存症だったことを岡本に告白しています。この2人共に現在62歳でパット・ブラドリーが1951年3月24日生まれで、岡本綾子が1951年4月2日生まれと、生年月日がほぼ1週間しか違いません。

海外メジャーでは勝てませんでしたが、優勝回数62回(国内44回、米ツアー17回 欧州ツアー1回)、USLPGA賞金女王1回(1987年)は燦然と光り輝く成績です。日本を代表するプロゴルファーの宮里藍が米ツアー9勝(2013年5月現在)ですから、この記録がいかにすごいものであるかがわかります。

5人の門下生の活躍
「リーダーシップをとる性格ではないし、協調性を欠くところもある私が5人も面倒をみるとは・・・」。最近5人の門下生(服部真夕、森田理香子、青山加織、表純子、若林舞衣子)の師匠としてがぜん注目を集める岡本綾子ですが、奇しくも昨日比嘉真美子が優勝したリゾートトラストレディス(関西ゴルフ倶楽部)では4位までに4名の門下生がランクインしました。2位、服部真夕、3位、森田理香子、4位タイ、表純子&若林舞衣子。

今年は森田理香子が賞金ランキングトップを走っていますし、弟子たちの活躍が目立っています。岡本綾子自身は海外メジャーには手が届きませんでしたが、いつかは弟子たちが海外メジャー勝利、という夢も続きます。
 

日記